オクトラ大陸の覇者 全体的な感想

19 December 2023

Octopath CotC オクトラ大陸の覇者

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プレイ記録としておおよそ1~2章クリアごとに感想を書いてきたが、ここでは全体を振り返って、各章では書ききれなかった感想についてまとめてみようと思った。

「自分だけの旅を生きる」

公式トレーラーのスクリーンショット「自分だけの旅を生きるべきだ」

三極編の最初から「トラベラーがメインストーリーに関わるのは結構無理がある」と思いながらプレイし、ついにサイドオルステラのメインコンテンツを終えたが、トレイラーの「自分だけの旅を生きる」とはどういう意味だったのか、自分には結局最後まで分からなかった。

「自分だけの旅を生きる」というのを、コンテンツをクリアする順番程度の意味で言っているのなら誇大広告である。ついでに、「他人に判断を預けるな」とは言うが、ストーリー上でプレイヤーが自分の判断を下す箇所はない。
数あるストーリー分岐をクリアした順番、またはどのイベントをクリアしたかでエンディングなどの演出が変わるならともかく、三極編三授編をどの順番でクリアしたか程度でストーリーに関する印象は言うほどは変わらない。
無印はそれでも仲間にする順番クリアする順番で旅に対する印象が千差万別になったが、大陸の覇者のメインストーリーではストーリー上で表示されているキャラは誰であろうが等しく「選ばれし者」のロールを演じるだけで、「このキャラが選ばれし者なので」シナリオや演出が変化するということも全くない。単に表示キャラを選んでいるだけである。

一応各トラベラーごとに固有のストーリーはあるが、単にバラバラに約160人分のストーリーがあるだけである。キャラ同士の関わりや、固有のストーリーからそのトラベラーが「選ばれし者」となって一連のストーリーにかかわっていく過程には何も説明がない(「栞」というキャラ同士の関わりを描いたおまけストーリーは一応あるが、量が少なすぎる)。無印の時から「主人公同士が関わる理由がない」というのは言われていたことではあるが、それに輪をかけて一緒に旅をする理由がない。

二次創作をする人たちはこの「自分だけの旅を生きる」というキャッチフレーズを「それぞれのトラベラーが他のトラベラーやストーリーに関与する理由は特に説明しないから、プレイヤーがそれぞれ自分で勝手に補完してね」という意味に解釈している人が多かったように思うが、それは運営に甘いのではないだろうか。「詳細は当然考えてあるが敢えて語らない」のと「何も考えていないので解釈は受け手に丸投げ」では違う。前者は演出の一環だが後者は単なる手抜きで、覇者の「自分だけの旅」はどちらかというと後者だと思っている。
大陸の覇者よりもっとストーリーとキャラの関係の自由度の高いRPGはある。たとえばドラゴンクエスト3は、勇者以外のキャラメイクは完全にプレイヤーに委ねられており、それゆえキャラとストーリーの解釈の余地は無限大だった。でもあのゲームを「自分だけの旅」とは誰も形容しない。

バトル(特にボス戦)は「自分だけの旅」と言えるが、ストーリーについてはプレイヤーが関与する余地は全くなく、ゲーム体験としては正直なところ、オクトパストラベラーよりもSaGaシリーズの方が「君だけのストーリー」感はある。ただSaGaシリーズは「ストーリー」ではあるが「旅」ではなく、「旅」はオクトパストラベラーなのが面白い。


全てを授けし者編

物語としても、三授編までは緊迫感がありテンポもよかったが、全授編に入って急に失速した感は否めなかった。

これはFF16の感想だが、「ドロドロの政治劇やってるうちは脚本がイキイキしてて、終盤に神とか人とか言い出してからの失速感が残念だった」というくだりに既視感がありすぎた。メーカーとしての傾向みたいなものなのだろうか。

全授編はそのシナリオの薄さをバトルの難度を爆上げすることで補った感があった。4月24日の第9回生放送で発表されたメインストーリー到達率を見ても、メインストーリーのボスが撃破できずに脱落したと思われるプレイヤーは多い。

オクトラ大陸の覇者生放送第9回のスクリーンショット

「10人に1人くらいしかストーリー最後までやらないのなら、いっそストーリーの方がエンドコンテンツ並の難易度でもいいのかも」という意見を見かけた。一理あるとは思ったが、ストーリーがクリアするべきメインコンテンツであるという建前は守ってほしい。

三授編まではマップ上で行ける箇所が増えて世界が広がる感じがしたのだが、全授編の辺獄マップではそれは感じられなかった。マップの数としては全授編でも三授編と同じくらい追加されていたのになんだか広がりが全然感じられなかったのは、広大な辺獄の中のごく一部しかマップが実装されなかったからだろうか。
マップといえば、全授編に入る前ではあるが、どうしてそのダンジョンにその音楽を当てた?! という箇所がいくつかあった。エンバーグロウ雪山、死の谷、エドラス城への道での「地下道ダンジョン」や原初の洞窟への道で流れる「屋敷ダンジョン」がそれである。大陸の覇者用に書き下ろされた曲も無印の曲と調和していてとてもよいと思っていたのに、無印の曲をイメージとは違う場所に使われたのは残念であった。

「極めし者」と違い、「授けし者」というタイトルもあまり内容を反映しているとは思わなかった。「極めし者」はまだ「極めた」と言えなくもなかったが、「授けし者」は横流しした、授けたかったが実態で、何も授けてはいなかったと思う。
また、サザントスのポリシーにも何か一貫しないものを感じた。具体的には「欲に塗れた人間を罰しよう」「自分が神になって理想の世界を作ろう」というモチベーションはイメージ通りなのだが、「人々に全てを授けよう」とかいう設定はどこかちぐはぐで、取って付けたような印象をもった。
そして「欲望の道に待ち受ける者」は実質エリカのテーマだが、このタイトルの意味は全く理解できない。曲自体はメロディアスでとても良いのになぜこのタイトルなのか。エリカの「責めを受けるべき」欲とは何だったのか? 全極編で安易にエリカを救わなかったのはむしろ誠実だと思ったが、全授編におけるエリカの扱いには自分は今でも納得がいかない。
「どんなに不条理な設定であっても、作者の中で一貫した世界観があり、受け手を納得させられる描写ができていればいいと思ってます。 逆に安直なだけの作品は興ざめします」この原則は、あまり守られていないと思った。しかし運営ゲーである以上仕方のないことなのかもしれない。

ストーリーの見せ方はSaGaよりはFFに近づいたと思う。やはり何もかも余さず登場人物がセリフで説明してくれるのが今風なのだろうか。できれば「セリフではなく状況で描写」してほしいと思っている自分としては、設定を読み上げてるようなセリフを長々と読まされるのは退屈だと思ってしまうが、書くにも理解するにも頭は使わなくていいかもしれない。
手記を大量に読ませる形式はそろそろやめてもいいと思う。あれは使われる回数が少ないからこそインパクトがあるのであって、常態化すると手抜き感が増す。


大陸の覇者に関する感想、特に全てを授けし者編は、純粋に本編に対するものというよりは、Twitter(当時)で見た感想に対する反論が多くなってしまった。運営の方針や途中経過には意見はあるが、結果として運営の描いたストーリー上の結論と自分の結論は同じになった。それを「運営のイヌ」みたいに言われるのは承服しかねる。
ストーリー内の視点では、サザントスの世界を受け入れることはそれこそ「思考を止め」「他人に判断を預ける」ことに他ならないのではないのか?
先入観のない真っ新な感想を持てなかったというのは残念ではあるが、一方で、このTwitter(当時)の感想を読んでいなかったらおそらく今でもメインコンテンツはクリアできないままだったと思う。Twitter(当時)の感想は、ゲームを進めるうえで強力なモチベーションになった。


欧米版ログイン365日によせて

365日目のアイラからの手紙

今日は記念すべき旅団1(欧米版)365日目のログインだった。正確な日時は記録に残っていないが、日本版をダウンロードしたのがTwitter(当時)を見る限りでは12月7日で欧米版はそれより数日早かったはずなので、丸々2週間はログインすらしなかった日があったということである。思い返してみれば去年の年末の1週間くらいはよくわかってなかったのもあって毎日はログインしてなかったかもしれない。後の4日は朗読劇のために帰国した時である。
今年は大陸の覇者に明け暮れた1年であった。
大陸の覇者は自分に、ブログ記事を量産(当社比)するだけの熱量をくれた。


ありがとう、大陸の覇者。

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